昭和59年 化学品卸会社での出来事【Ⅱ-①】

ぜい昔話  エピソードⅡ-❶

それは東京玄関口での出来事であった

S59丸の内

1984年(昭和59年)ソ連・東欧勢がボイコットしたロサンゼルスオリンピックが開催されたこの年、米国のカール・ルイスが陸上で100m、200m、走り幅跳びで優勝する離れ業を演じ、米国チームの400mリレー優勝にも貢献した。米国ではレーガン大統領が再選され、一方日本では第2次中曽根内閣が発足し、日米はロン・ヤスの時代だった。イラン・イラク戦争は5年目に突入し、香港の中国返還は正式に決定された。

福沢・新渡戸・夏目の新日本銀行券が発行され、誘拐と毒入り菓子に震撼した“かい人21面相”によるグリコ・森永事件が起こっている。BGMは佐野元春かサザン、ユーミン(松任谷由美)が主流であった。

シンボリルドルフは昭和58年7月23日、新潟競馬でデビュー戦を勝ち、2戦目は10月29日の“いちょう特別”、3戦目は11月27日の“オープン”で、ともに楽勝した。その額には三日月に似た形がついており、ミスターシービーがシンザン以来の三冠馬となり競馬ファンの注目を一身に集めていたころ、その天下を脅かす超大物シンボリルドルフは着々と歩を進めていた。その前半のハイライトはビゼンニシキとの世代No.1争いである。

第1ラウンドは昭和59年3月4日無敗同士の対決となった弥生賞、3戦全勝・3カ月ぶりで18キロ増のシンボリルドルフに対し、ビゼンニシキは4連勝、2月の共同通信杯4歳S快勝であり、仕上がりと完成度に差があると見られ、1番人気に推されたのはビゼンニシキだった。シンボリルドルフはこの強敵を相手に初めてベールを脱いだ。好位追走から楽々抜け出し、追いすがるビゼンニシキを問題にしない完勝であった。

第2ラウンドの昭和59年4月15日の皐月賞では、ビゼンニシキ陣営は諦めてなく、出遅れに加えて直線で内にささる不利であり、逆転の望みをかけたビゼンニシキは1馬身4分の1及ばず2着で、またしてもシンボリルドルフの凱旋に屈したのであった。

第3ラウンドは5月27日の日本ダービーでの3度の対決となった。皐月賞からのシンボリルドルフとNHK杯勝者ビゼンニシキとのレースは3度目の無敗のまま優勝を勝ち取り、ビゼンニシキは距離の壁にぶち当たって14着に沈み、明暗を分けることとなった。

その後、三冠最後の菊花賞(11月11日)もジャパンカップ(11月25日)も快勝した。

シンボリルドルフほど「格が違う」「負けるわけがない」と言われ続けた馬はいない。王道を圧倒的な強さで突き進む馬、日本の競馬史上初の無敗の三冠馬シンボリルドルフは“皇帝”と言われる所以である。

そんな得体の知れない怪物が動き出そうな社会背景を予感させる世の中に、突如法人特官に指令された法人調査事案が東京駅の丸の内側の瀟灑なビルの一角の化学品卸会社であった。㋚(査察)出身特官と2人でその会社のドアを開いた時は2代目車種のCMでエリマキトカゲが後ろ足だけで直立して走る姿が絶妙であったが肝心の車は売れない某社であった。その姿に何故か某グループ凋落の姿を重ね合わせて見ていたのは私だけであったろうか?

▶︎▶︎▶︎ つづきは2022年(令和4年)4月号へ ▶︎▶︎▶︎

 

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