高齢化社会と生存コスト

極楽と地獄への分かれ道

No112_1933810長寿は昔からの願いであり、不老長寿の薬を求めて世界中を捜し求めた話は太古の昔から伝えられている。極楽は、老後の生活が不自由なく、かつ不安なく暮らせ、人生を人間としての尊厳を持って全とうできる社会である。

この昔から憧れてきた長寿社会が目の前に実現しつつあるにもかかわらず、本来喜ぶべきこの現象がおかしな方向に向かっている。それは本来人生を全うするに必要な社会保障システムが、昨年来続いている年金記録問題や、いま世間を騒がせている後期高齢者医療制度で、欠陥を露呈してしまったからである。

5月25日の日経ヴェリタスの記事によれば、生産年齢時代に蓄積した資産の運用宜しきを得なければ75歳で枯渇してしまうと報じられていたとおりである。まさしく高齢化社会は地獄への分かれ道になりかねないのである。

世代間扶養論はまやかし

なぜこのようなことになったのであろうか。それは広く論じられてきた世代間扶養論にあると考える。世代間扶養は世代構成が安定し、家族社会、地域社会が機能しているときに成り立つもので、戦後のように急速に世代構成が変化し、社会構造が変化してきているときにはバランスが取れなくなって破綻してしまうのである。

すでに国民年金が発足した昭和36年には人口構成に変化が現れており、積み立て方式の年金制度を発足間もなく世代間扶養の理論に摺りかえてしまったお役人の悪知恵に怒りを禁じえない(文芸春秋平成16年5月号)。

生存コスト(※)の中核をなす国民年金制度は昭和36年にスタートしたが、完全受給が始まったのは平成13年で40年の歳月が過ぎているのである。

さらに、その後の余生の平均余命は男性で22年(到達年齢82歳)、女性で28年(同88歳)、その次にくる平均余命はさらに男性8年(同90歳)、女性5年(同93歳)で最高齢者は112歳まで、生産年齢経過後なお52年の生存を維持するコストを要するのである。これを世代間扶養論で論ずるのは無理であることは自明の理である。

生存コスト・原則は自己貯蓄と制度的貯蓄

平成16年における一人当たりの生存コストを試算してみると社会的制度の枠組みに入っている年金・医療費・介護費用を合わせて約240万円であった(日本国勢図会65版による試算)。男性平均余命22年で5280万円、さらに8年計30年の生存コストは7200万円に上る。

日経ヴェリタスの記事ではないが生産年齢を超えて後の生存をどう維持するかは重要な問題である。高齢者になればなるほど医療費・介護費用などの生存コストがかかるのは当然のことで、これを前提とした社会保障システムでなければならない。

自らの生存は誰に頼るものでもなくその為のコストは現役世代中に自己資産の形成、社会的制度としての資産形成を通じて準備すべきものであろう(図参照)。コストとそれを維持する原資の資産形成は、年金数理や保険数理を駆使すれば、制度として設計可能である。

社会保障システムはしなやかで揺るぎないシステムを

社会保障問題は国民年金の未納問題に始まり、記録記入漏れ問題、いま全国を揺るがしている後期高齢者医療制度、特に医療保険を年金から源泉徴収することに集中している。

政府は2050年には社会保障費の税負担は40兆円を超え財政的に破綻するので消費税を増税して社会保障費に充てたいという。ただ財政的側面にしか目を向けておらず、現在のシステムを前提として考えればそうかもしれない。しかし、この問題は、基本的には計測できるものであり、客観的な計数を基礎に考えれば十分対処できるものと考える。

国には人口問題や各種統計を専門に研究している研究所があり、マクロ的な生存コストの計量がきちっと正確にできれば、生存コストの理論的な制度的形成は可能である。ゆるぎない制度設計とそれへの移行ギャップを社会保障債の発行を含めて政策的に論じることでなければ徒に国民を不安に陥れ、政争の具になってしまうのではなかろうか。

前述したように社会保障システムは人の一生 に影響を及ぼすものであり、理論的枠組みのもとに確固とした、しかも、状況の変化に耐えるしなやかな社会保障システムを組み立ててほしいと願う。

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※生存コスト(私の造語):

生存コスト=公的年金+医療費+介護費用
生産年齢(65歳)を過ぎてから受け取る年金や生産年齢を過ぎてからかかる医療費・介護費用は生産年齢を過ぎてから生活をしていくためにかかる費用と考えればこれを生存コストとして捉えることができる。

 


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