官僚不信ここに極まる
藤井総裁
日本道路公団の藤井総裁の就去を巡って押し問答が続いている。国民から見たらどちらに非があり、どちらに理があるか判らないが、官僚不信ここに極まるという感じがする。官僚の無責任体制と組織維持の自己目的化、肥大化を端無くも見たような気がするのである。
藤井総裁の自己正当化の論理は当人にとっては当然かもしれないが、役人は理由の如何を問わず辞令で動くという常識に反するし、地位に異常に執着する姿は国民を愚弄するものに思え、お役人・官僚への国民不信を増幅するもの以外の何ものでもない。
デフレの歴史は官僚不信の歴史
デフレの歴史は官僚不信の歴史でもある。
プラザ合意で予想を越える円高を招いた大蔵省、バブル崩壊を加速させデフレスパイラルに落とした金融当局、減反政策のなか米不作で食料不足を引き起こした食糧庁、ノーパンシャブシャブの大蔵省、贈与税を知らなかったり、稚拙な手口で巨額の脱税をして当然といわんばかりの元国税局長、サリドマイドやエイズ等の薬害における厚生省、破綻に瀕している年金を作ったときの官僚の無責任な発言など数え上げればきりがない。
国民のお金を集めた郵貯・簡保のお金の使い方を見ても、お金を政府を信じて預けてもいいものかどうか、国民は政府をどこまで信じていけばよいのか、漠然とした不安を感じていたが、こんどの事件で不信が決定的になったと思うのである。
官僚制度の硬直性
なぜこのような不信感が醸成されてきたのだろうか。官僚は個人ひとり一人をみれば非常に優秀で優れた人々であるのに、官僚という組織に組み込まれた途端になんとも得体の知れない人になってしまうことは多くの人が指摘するところである。
官僚制度は天皇の臣下として機能する天皇の無謬性に基づいた組織であった。野口悠紀雄氏のいう1940年体制がそのまま戦後の民主主義体制の中に活きつづけているのである。官僚組織はその無謬性を色濃く引きずっているが故に国民に対して責任を負う仕組みがないのである。
シンクタンクの育成と官僚の政治任命制
衆議院議員選挙の実施が決まり、政党の公約を実行可能な政策として明示するマニュフェストとして掲げて国民の審判を受けようとする動きが出てきたことは望ましい方向ではある。
しかし、その政策の実現可能性、実行可能性はなかなか少ないといわざるを得ないだろう。マニュフェストが政党政治の公約として実行するためにはシンクタンクとしての政策研究集団と政策の実行責任者を官僚のトップとして任命することができる政治任命制度が必要となろう。
藤井総裁の更迭事件を契機として官僚制度の改革議論が構造改革の一環に据えられることを望むものである。
(小川 湧三)
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